2013年08月21日

ナデージダ(Nadezhda) - 希望の保養所

「福島の子どもの心のケア」、エレーナ・トルスタヤ准教授の講演会に行ってきました。主催は、DAYS JAPANで、広河隆一さんとかが中心となってやっている。

さて、講演の中心は子供たちへの直接の被爆の問題だけでなく、今後長期にわたって精神的なケアが必要であるという点であった。エレーナさんは、チェルノブイリの子どもたちの精神的なケアに当たってきた心理学の専門家であり、チェルノブイリで実際に起こっている子供たちの精神的な問題に対する経験から、福島の子どもたちに対する精神的なケアの重要性を訴えていた。

子どもたちへの心理的・精神的な影響は、情緒不安定、攻撃的な姿勢、不眠など様々な形で表れている。非常に大きなストレスを受けている子供たちもおり、また、子供たちだけでなく両親も情緒不安定になってしまうケースがある。また、精神的なダメージから、適切に子供を育てられなかったり、被害者意識を持つ人も増えてしまっているとのことである。

このような子供たちに対しては、特別な治療方法が必要であるし、適切な栄養補給や医学的な対応など複合的な治療も必要になっている。また、保養所でのケアは、リハビリに非常に有効であることも証明されているとのことである。

このような状況の中で、ベラルーシでは国として以下の権利を法律で保証している:
1. 子どもたちの健康改善を無料で行う
2. 健康改善のための交通費を無料で支給する
3. 保養所を無料で利用できる

振り返って、現在の福島の状況について広河さんは以下のように述べていた。
チェルノブイリの経験をもとに、何をしなければいけないかを考えなければいけない。そのためには、福島の子どもたちの心理的なケアの実施が急務である。ただ、この方法自体が確立されているわけではなく、試行錯誤の取り組みになる。また、甲状腺がんの子どもたちが増えていることが問題であり、この子どもたちのケアがより重要である。球美の里では、楽しく過ごしてもらうということで、子供たちの精神的なケアを行なっていくとのこと。

さて、福島とチェルノブイリの最大の違いは国が責任を持って対応を取っているということである。チェルノブイリでは、子供たちのケアを国が法律で定めて対応し、また、必要な援助を行っている。福島では、国がまだ何も対応を行っておらず、対応が始められるまで民間レベルで頑張るしかないというのが実情である。「原発事故子ども・被災者支援法」が制定されてから1年経過してもいまだ具体的な支援策が出されていない。私たちが、どのようにして未来の子どもたちを守っていけるのか。チェルノブイリの経験が示すように、これから長い年月に渡って、どのような形であるにせよ支えていかなくてはいけない。
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2013年03月12日

2回目の3.11 そして反原発

2回目の3.11で、私なりに反原発を再確認しなければならない。時とともに、なんのための反原発なのか分らなくなってしまう。もう一度直に触れてみて、あらためて自分を見つめてみたい。そんな気持ちで集会とデモに参加した。その中で、3/11の「つながろうフクシマ! さようなら原発講演会」は、もう一度自分も行動しようと思わせてくれる内容であった。

1. 反原発、3つのポイント
  (1) 原発を、原子「炉」と呼ぶ言葉のまやかし。
    「炉」と呼ぶのは日本だけで、海外では核分裂反応装置という呼び方である。確かにreactorという言葉であるのだから、「炉」という言葉を使うのはおかしい。そもそも「炉」という言葉は、元来、暖かい火を囲み人々の心を交わす、ということであり、原発とは似ても似つかない。これを指摘したのは、日本人ではなくアーサー・ビナードというアメリカ人である。日本人が、知らず知らずのうちに乗っ取られてしまった言葉を取り戻すことが重要である。

  (2) 再びの原発安全神話
    福島では、被爆者の分断が起こっている。微量放射線に対して、過剰に騒いでいると差別される人。異常を異常と言えない、感じることができない異常な状況になってきている。

  (3) 10代の子供たちの叫び
    カタカナの「フクシマ」が悲しい。なんで、「ヒロシマ」、「ナガサキ」、「フクシマ」とカタカナで書くのか。自分たちは、実験材料にされているのではないか。「フクシマ」とつながるというのは、どういうことなのだろうか。漢字の「福島」とつながってほしい。

このような、誰が責任を取るのかを分らなくする仕掛けが着々と進んでいる。「合意無き国策」という矛盾。飴は先、鞭は後。参議院選挙の後に鞭はやってくる。今の世代のための政策は、未来世代の生存条件を大切にできない。私たちは、選択を誤ってはならない。

2. つながるとは?
  反原発デモに福島の人が加われるようにしていかなければならない。今のデモはそうなっていない。一番困っている人たちが参加できるデモにしないと。
  反原発を言っている人は年齢を重ねてきている。世代を超えて語り続けられる言葉とは何かを考える必要がある。

3. 福島の実情
「大災害は、人と人を結びつける。原発災害は、人と人を引き裂く」。福島では、被害者同士の対立が深刻化してきている。「避難」に対して「逃げる」という対立。帰還するかどうかの対立。さらに、心の内部で引き裂かれる思いを持っている。それは、「現実の大変さを声に出したい」、しかし、「子供への影響は少ないと言いたい」という矛盾。

4. 最後に
  戦争を知っている人たちは、現在の状況に危機感を強く持っている。彼らの視点からすると、明らかに言論統制が始まっている。本来、3.11は鎮魂であるが、反原発の声を上げ続ける日にしなければならない。日本人は、人の苦しみを覆い隠してその上に生活を築いてきた。原発事故を覆い隠し、無かったことにして、その上に社会を作っていくようなことは断固拒否したい。「社会はリスクと矛盾を作り出し、その責任は個人に押し付ける」だったかな?こんな社会は無くしていかなければならない。
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2013年03月10日

僕がプリウスをやめた理由 ー その3

さて、フィットに乗り換えてほぼ1年。プリウスから乗り換えた私なりに、ちょっと総括してみたい。
以前のブログの内容を訂正する部分もあるので、それを含めて書いていく。

1. EV走行について
  前のブログで、フィットは「モーターだけのEV走行はできない」と書いてしまっていたが、これは間違いであった。確かに、始動時にEV走行にはならないのであるが、定速走行時にはEV走行になる。それでは、なんでプリウスのように始動時や低速走行時にEV走行にならないのかという疑問が残る。バッテリーのパワーが十分でないために、始動時にEV走行することはできないのではないかと思っていたが、先日ディーラーで聞いたところ、特許上、モーターとエンジンを独立して駆動させることができないため、このような仕様になっているとのことであった。さすが、ハイブリッドでは先行しているトヨタには、さまざまな特許があるようで、それに抵触しないハイブリッド車を作るのは大変なようである。しかし、ここで1つ疑問が湧いてきた。それでは、定速走行中にEVモードになるのはなぜなのか?これについては、ディーラーの人が言うには、あくまで電子制御の範囲でモーターのみが駆動している状態であり、モーターとエンジンが独立して駆動しているわけではないということであった。う〜ん、なんとなく微妙な表現であるが、そういうものなのであろう。

2. 燃費について
  生涯燃費は、1年乗ってみて22.0km/lである。プリウス(初代MC)は、同じようなところを同じように走っていて21.0km/lであったので、ほぼ同じくらいである。高速でのフィットの燃費は、実測していないが、かなり良かったように思う。初代MCプリウスが、高速であまり燃費が伸びない、特に100km/hを超えてくると逆に燃費が落ちるのと比べると、フィットの方が高速燃費は良いようである。この辺りは、最近のプリウスでは改良されているようであるが、実際にどのような状況なのかはわからない。一方、渋滞、特にストップ&ゴーを繰り返すような場合には、フィットは始動時にエンジンがかかってしまうため、燃費が落ちてしまう。

3. 視界について
フィットの視界はとても広く、これについては満足している。1つ気になるのは、ピレーである。プリウスほどフロントパネルが高くないため、それほど気にはならないが、やはり最近の車と同様にピレーが寝ている。そのため、右折する時には視線の方向とピレーが重なってしまい、どうしても頭を傾けなければならないことになる。ピレーの下に三角窓があり、そこである程度視界は確保されるので安全上気になるというレベルではないが、右折に入った瞬間に視界が遮られるのはちょっと悲しい。ピレー自体、安全面から総合的に検証してもらった方がよいのではないかと思う。

4. アイドリングストップについて
  フィットは、非常にアイドリングストップへの入り方が良いように思われる。エンジン温が低い状況でも、アイドリングストップになりやすい。初代MCプリウスでは、エンジンが温まるまでなかなかアイドリングストップにはならなかったのと比べると、フィットはすぐにアイドリングストップになり、ここではフィットの方が燃費に貢献しているように思われる。
それから、エアコンをかけていない状態でもエンジンの温度が上がっていない状態ではアイドリングストップにならないということがある。これは、冬場では特に起こることで、これ自体はプリウスも同じであった。しかしながら、送風を足元だけにしていた場合には、あまりにもアイドリングストップにならないという問題があった。これは、送風を体と足元に両方送られるようにすることで解消された。後でディーラに確認したところ、温度センサーがフロントパネルの上の位置に設置されているので、そのようになるとこのとであった。冬場は、どうしても足元を温かくしたいと思うので、この部分はちょっと改良の余地があるのではないかと思われる。

5. フロントガラスの角度
  上でも述べたように、ピレーの確度とともにフロントガラスが寝ている。これは、フィットに限った事ではなく、最近の車はほとんどそのようであるが、これが夏場の冷房効果に影響するように思われる。フロントパネルとフロントガラスの間に熱が籠る、というか、フロントガラスから入ってきた太陽光線とその熱で、フロントパネルの上あたりから、もわっとした空気が流れてくる。そのため、エアコンを強めにせざるをえなくなるため、燃費に悪影響を及ぼしているように思われる。空気抵抗を下げるためと思われるフロントガラスの角度により、燃費が落ちるようでは本末転倒のようであり、これの改善を期待したい。

気が付いた点は、上記の5つくらいです。また、なにかありましたら書き込みます。
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2012年12月27日

All we are saying is give “No-Nuke” a chance !!!

去年とは違う原発に対するスタンス。今年は、原発ゼロが目的であった。若くもない私を駆り立てるのは、やはり贅沢を謳歌してきた世代が未来に残したツケをどうやって償えるのか、ということでしかない。一度は実現した原発ゼロが、大飯によって無残に潰され、一度は2030年までに原発ゼロを決めたはずの政府が、米国と経団連により無残にも潰された。今年最後の砦の総選挙も、脱原発を争点にしないように巧みにかわされて結果は原発推進派の圧勝となってしまった。官邸前で、また、100,000万人集会や脱原発世界集会などでシュプレヒコールを上げても届かない。少しでも人数が多ければ何かが動くかもしれないと思った後のむなしさ。しかし、まだまだこの火は灯し続けなければいけない。

先日、福島原発告訴団の報告会に行ってきた。1万3262人+αの声は、福島地検に受理された。これは大きな一歩ではあるが、検察が強制捜査のステップに進まない限り起訴にはならない。そのためには民意が盛り上がる必要があるとのこと。こちらは、反原発集会による直接政治への訴えと違い、直接東電と政府の責任を追及するとともにすべての事実を明らかにすることができる。松戸から来た人が言っていたのは、ホットスポットがあちこちにある地域に住まされていて、このまま誰も責任を取らない、何の事実も明らかにされないのでは死んでも死にきれない。これから何ができるのか。告訴団本部と連絡を取りながらやれることをやらなければ。日本が行政訴訟をもっとやることが必要とのことである。ドイツでは、人口10万人当たり637件の行政訴訟があるそうである。日本は、わずか1.7件。これは、検討する価値がある。

福島もその周りの地域も原発の話は終わりにしたいようである。集会に行くたびに聞かされる話であるが、福島からの反原発のメッセージは福島の人によって非難される。風評被害を冗長するだけだと。栃木県の那須の人が言っていたのは、那須の人は原発事故はもはやなかったことにしたい、内部被ばくはないんだとしたい。除染は風評被害になり、観光に影響が出るから余計なことは言うなと。福島では避難区域が続々解除されている。解除することで住宅支援を打ち切ることができるとのこと。反対に、福島の子供の甲状腺の異常が40%に上るとの報告もある。ホットスポットをこのままにして、子供の将来はどうなるのか。チェルノブイリで起こっていることが、福島で起こるのかどうか。櫻井よしこさんは、今まで尊敬していたジャーナリストではあるが、年間20mSvで大丈夫と言っている。過度に不安を煽ることはしたくないが、どこに安全基準があるのかわからない。

イタリアの反原発運動家が、「イタリアは国民投票で反原発を決めた。日本も頑張ってほしい」と。ウクライナの活動家は、「ウクライナの住民は原発を作りたくない。でも、日本から日立が原発を作りに来るらしい。ぜひ日本から声を上げてウクライナに原発を作らないようにしてほしい」と。前にもブログに書いたが、日本が再びJAPと呼ばれないように、今のうちにやるべきことをやらなければいけない。

どうも、水俣病の話と似ているように感じてきている。数年前、当時の大臣がテレビで、「水銀が問題であることは分かっていた(問題である可能性が高いことは分かっていた、だったかな)。けれども、当時の高度経済成長の時代でそれを言うことはできなかった」と言っていた。ちょっとググってみて、「水俣病の教訓と日本の水銀対策」という平成23年の環境省の資料を見てみると以下のような記述があった。

• 水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので(中略)適用することは出来ないものと考える。

なんか、どこかで聞いたようなフレーズである。そういえば、水俣病が流行る前に「最近、ネズミが多くて困る」という話があったようだ。魚を食べた猫が死んでネズミを捕らなくなったからとのこと。先日の反原発100,000人集会で、福島からの講演者が「福島では虫やカエルがいなくなった」と言っていた。なにやら、背筋が寒くなる話である。何十年も経たないと、真実は明らかにされないということであろうか。だとすると、住んでいる人たちがかわいそうである。福島の子供たちを疎開させる運動も起こっている。広河隆一さんが進めている「沖縄・球美の里」もその1つである。「20年に及ぶチェルノブイリの救援活動の経験から,被曝した子どもたちが、将来発症することを防ぐために「保養がいかに大切か」、たとえ1か月弱でも美しい空気と光に包まれて、安全な食べ物を食べ、思い切り毎日を楽しんで、ストレスから解放され、免疫力を高める生活が、子どもたちに一番必要とされることなのです。そして注意深く子どもを健康管理し、早期に対策を講じることも必要です。日本の中の他の場所での試みと連携することによって、子どもたちは1か月といわずさらに長期の保養が可能になるでしょう。」とのことである。そのほかの疎開活動もいろいろなところで進められており、どのように協力できるかを考えていきたい。

自分自身、反原発の立場で良いのかどうか迷うこともある。もしかしたら、ほかの原発は新しいので大丈夫なのかもしれない。もしかしたら、低線量放射線はそれほど問題ではないのかもしれない。国防上、日本は核兵器を持たないまでも核の技術やプルトニウムは蓄えておく必要があるのかもしれない。などなど。でも、やはり反原発だ。先日亡くなった中沢啓治さんは、「人間の手で制御できない原発ばかりに頼るのは危険だ」と言っている。原発は、まだ人間の手に負えないというのは事実であり、そうであるならばやはり反原発だ。

来年、なにができるかな。じっくり考えたいが、まずは今年最後の官邸前だ。
All we are saying is give “No-Nuke” a chance

posted by 鵤由利 at 16:27| Comment(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

宇都宮けんじさんキックオフ集会

宇都宮けんじさんの都知事選立候補キックオフ集会に行ってきました。反原発についてはぶれないと思われるので、私の一票を賭けるのにふさわしいかどうかの見極めのために行きました。あくまで個人的な見解です。
公約の柱は4点。反原発、福祉、教育再建、護憲。
反原発については、単に即時撤退ということだけでなく、都民の健康調査、環境調査を積極的に進めるとのこと。また、損害賠償のための訴訟すらできない弱者を救済することも進めていくとのこと。
福祉は、貧困と格差拡大からの脱却ということで、石原都政の弱者切り捨て政策を完全否定。最低賃金の引き上げを行うために入札要件に最低賃金を入れるなどのアイデアも展開するとのこと。
教育再建は、石原都政で教師に対する管理体制が非常に強化されたことに対して、教師の自由度を高めるとのこと。日の丸、君が代の強制は廃止。いじめのない学校をつくる。さらに、朝鮮学校への補助金の支給も再開するとのこと。
護憲は、現在進んでいる国家主義に対抗していくとのこと。
弁護士として、反貧困に取り組んできた経験も生かし人にやさしい政治を目指すということでした。
応援団は、錚々たる顔ぶれ。鎌田慧さん、落合恵子さん、佐高信さん、鈴木邦夫さん、田中優子さん、などなど。また、雨宮処凛さんや、山本太郎さん、メッセージで湯浅誠さん、また福島からも応援が来ていました。
総じて、石原都政の弱者切り捨て、差別発言に対し、人にやさしい政治を目指すとのことで一致していた。また、勝手連の選挙活動になるため、市民運動が力をつける大きなチャンスになるかもしれないという雰囲気は感じた。

個人的には、違和感を感じ応援しきれないと思いました。差別や貧困に真っ向から向かうのは良いとして、これだけの福祉をやった場合の財源等の話は一切なし。また、教育改革は良いとして、それに便乗するように君が代訴訟を正当化しようとする教師を抑えきれていない。日教組の集会ってこんな感じかな、と思うようなところがありました。朝鮮学校への補助金にしても、弁護士として教育を受ける権利を保障するという立場を取るとしても、政治家として外交上の問題にどう対応するかについては触れられていない。そもそも、石原前都知事も、北朝鮮が気に入らないだけで補助金を止めたわけではないはず。また、集まっている人の盛り上がり方にも違和感を覚えた。反原発に向け、市民運動を起爆剤にしていきたいと思っているけれども、さて、この人だろうかという感じがしました。
posted by 鵤由利 at 13:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月12日

反原発1,000,000人集会

降りしきる雨の中、頭数だけでも応援できたらと思い「反原発1,000,000人集会」に行ってきた。「なんどかめげそうになる自分を奮い立たせて」と書きたいところではあるけれども、そんなかっこよいことは言わなくても大丈夫。雨合羽で武装したとはいえ、手はふやけてくるし足元も濡れてくる。なのに、4時間立っていてもまだまだやれるというこの感覚は、周りと一体化した気持ちの成せる業である。檀上で訴える人、歌で盛り上げる人、そしてシュプレヒコール。伝わるかどうかも分からない、けれども伝え続けなければいけない。この盛り上がりを止めてしまったら、未来に償いができない。そんな見知らぬ仲間たちの叫びが、地球上に届く日を待ちわびて。
集会に参加するのも何度目だろうか。サラリーマンとしては、仕事もあるし飲み会もあるし、そう何回も参加できない。でも、参加するたびに脳天に衝撃が走るような感覚を覚える。前に参加した集会での福島からの壮絶な叫び。なんとかシーベルトのホットスポットのある公園で遊んでいる子供たちとそれを見つめるだけの大人たち。決して少なくはない放射能の雨の中で行われたお祭りで、びっしょりになりながら神輿を担いでいた子供たちの楽しそうな笑顔。大間原発のあさこハウス。最後まで土地を売らず、村民の嫌がらせにも耐えて反対運動を貫いた。「人間は畑と海があれば暮らせる」という素朴な言葉の衝撃。
今回も、数々の訴えが轟いた。鹿児島も愛媛も志賀も、みんなが怯えた生活をしている。福島では、原発事故の悲惨さを訴えること自体が「風評被害を増長する」ということで非難されている。北海道では、今年の冬に向けて電力不足をことさら煽っている。放射能物質の検査体制の甘さに対して、ゼロ・ベクレル運動を行っている人たち。除染作業に、1日当たり4万6千円なにがしかが支給されているのに、実際に作業員に渡っているのは8,000円とか。問題を起こした会社が、その処理でさらに儲けているということか。
今何ができるか?これが、集会の大きなテーマである。そうでないと、単なる騒ぎで終わってしまう。今できること、それは、政治を動かすことしかない。まもなくやってくる都知事選、そして衆議院選、来年には参議院選。ここで、動かせなかったら変えることはできない。これが、雨の中集まった人々の一体感を生み出している。原発推進の政治家を排除できるかどうか、また、仮面の反原発政治家を炙り出せるかどうか、私たちの眼力が試されている。また、政治家の政治姿勢に対して、反原発の比重をどこまで高めて考えられるかも試されている。最後は、経団連やアメリカの圧力に屈せずにやれるかという問題がある。アメリカの裏工作は熾烈であり、普通の議員ではまず対抗できないであろう。
「みんなの力」。これがすべてを動かすことができる力であると信じている。「神々との戦い」。強大な力、絶対的な力に対して本当に頑張りきれるのか。でも、がんばるしかない。私たちが謳歌してきた贅沢により、残してしまった将来へのつけを少しでも返済するために。
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2012年04月16日

僕がプリウスをやめた理由 − その2

さて、11年半乗ったプリウスを諦めて購入したのは、多くの人の想像に反して、ホンダのフィット・ハイブリッドでした。ガクッとしている人も多いと思われますが、私にとってはまさにフィットした車でした。

まず、試乗のためにホンダのディーラに行き、フィット・ハイブリッドとインサイトに乗った。やはり、長い間ハイブリッド車に乗っていると、どうしても離れられない。最近ではハイブリッドでなくても燃費の良い車が出ているので、ハイブリッドにこだわる必要はなかったが、やはりハイブリッドというものに乗ってみたくなった。フィット・ハイブリッドに乗ると、まず、視界が大きく広がることに安心感を覚えた。前方視界を邪魔する物もなく、ピレーも気にならない。また、ピレーの下に組み込まれているガラス窓が、斜め前の視界を確保している。サイドも後方視界も十分と感じた。実際に車を動かしてみると、プリウスとは違いブレーキを離した瞬間にエンジンが起動する。う〜ん、これでは単なるアイドリング・ストップか、と思ったが、走り出すと素直にエンジンが回ってくる。それほどアクセルを踏み込まなくても加速してくるところは、逆にプリウスにはない感覚である。試乗なのであまり長くは乗れないが、瞬間燃費も20km/lを超えてきており、普通に乗ればこのくらいの燃費にはなるな、と感じた。
次にインサイトを試乗した。こちらは、乗った瞬間に視野が狭いのが分かった。プリウス同様、ピレーが邪魔をする。後方視界は狭い。走りの感覚は、フィット・ハイブリッドとほとんど同じである。

さて、ここでプリウスとフィット・ハイブリッドとのハイブリッドの違いについて触れておく。プリウスは、スプリット方式と呼ばれていて、エンジンとモーターが独立して制御される。これにより、始動時などにはモーターだけのEV走行が可能になる。フィット・ハイブリッドは、パラレル方式と呼ばれ、エンジンとモーターは一体になっている。モーターは、エンジンを補助する形で駆動する。したがって、モーターだけのEV走行はできない。
また、この違いというものが、会社の方向性を決めているようである。プリウスというかトヨタは、最終的にはEVを目指していると思われる。ハイブリッドは、EVに移行するまで、あるいは、EVを補助するためにエンジンを使うということのようである。ホンダは、あくまでエンジンにこだわり、車はエンジンで走らせるという思想を持っているようである。ホンダは、EVは作らない(あくまで想像ですが)で、ガソリンに代わる水素等のエンジンを目指していくのであろう。

どちらのハイブリッドが優秀なのか?結論としては、どちらも優れている、というところである。私レベルでは、明確にどちらかとはいえない。あしからず。

最後に、プリウスを諦めた理由の1つである視界について改めて触れておく。ホンダ車が、すべて視界が広いわけではない。インサイトは、プリウス同様に視界は狭くなっている。そうすると、この視界が狭くなるのはハイブリッド特有のことなのだろうか。これについては、WISHに乗っている友達から、WISHもピレーは邪魔だよ、という話を聞いたように、フロントガラスの角度を平にした車の特徴のようである。フロントガラスを平にすることで、空気抵抗が低くできるのであろうか。もし、空気抵抗を低くするために視界を狭めているとしたら、安全性の観点からは本末転倒である。今後、車がどのような流れになるのか分からないが、視界の広さという観点で車を見ていくことも重要と思われた。

1年たっての総括を以下のブログに上げました。
http://ikayuuri.seesaa.net/article/343745249.html
posted by 鵤由利 at 20:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月12日

僕がプリウスをやめた理由

久しぶりにブログを更新しよう。ネタがないわけではないし、「旬でない能登紀行」も、まだ石川県にすら入っていないところで止まってしまっている。忙しさにかまけて書いていないわけではあるが、やはりやる気の問題だ。

さて、11年半乗っていたプリウスを乗り換えることになりました。11年半、よく乗り続けたものだ。ハイブリッドと共に歩んできたといえるかもしれない。初代プリウス、といいたいところであるが、初代のマイナーチェンジで、いわゆる「初プリMC」であった。そのころを思い出すと我ながら真剣にハイブリッドというものを考えていたことがわかる。

そもそも、当時プリウスにした理由であるが、「世界初の量産 ハイブリッド専用車」というメッセージに共感し、世の中の車がすべてハイブリッドになれば、環境問題にも非常に貢献できるはずだと考え、少しでもそれに協力できればというところであった。ハイブリッドを普通に乗れる車にするというコンセプトが好きだった。「プリウスマニア」というウエブサイトもあり、好き好んで買ったプリウスについて語り合ったものである。「満タン1,000キロ達成!」とか、はたまた「カックン・ブレーキ」という用語までできていた。技術的にもいろいろと議論され、時速15km以下になると、回生ブレーキからディスクブレーキに変わる、とか、加速時どこまでEVで粘れるか、とか。また、悪い評判として、「走るシケイン」と言われた人もいた。その時には、周りに迷惑のかからないエコドライブはどんなものなのかということが真剣に議論されていた。カックン・ブレーキもMCでは改良されて、全く違和感がない車に仕上がっていた。また、駆動のバッテリーはどのくらい持つのかというのも話題になっていた。私が11年半乗っていて、後半はさらに燃費が伸びていたところを見ると、おそらく駆動用バッテリーは劣化しにくいということになると思う。初代プリウスでは、駆動用バッテリーに保証が付いていたが、MCでは保証もなくなっていたところを見ると、トヨタも自信を持ってきたのであろう。また、特殊なタイヤを履いていたため、タイヤが駄目になった時、ディーラにすら在庫がないことがあった。その時はトヨタの営業マンが親切に対応してくれて、試乗用のプリウスのタイヤをとりあえず付けてくれて、後日、新品と交換するということをしてくれた。とにかく、みんなでプリウスを育てようという気概が感じられた。

やがて、2代目のプリウスが出て、車体も大きく3ナンバーになり、バッテリーも大きくなり、燃費もさらに向上した、ようだ。トヨタの営業マン曰く、「今度は自信をもって出します」。ん!?、今まではなんなの?しかし、私としてはこのころから違和感を持ってきた。試乗してみると、まず後方視界が良くない。なんとなく閉じ込められているような感じがあった。さらに、3代目プリウスが出て、アクアまでが出てきた。そろそろ乗り換え時かということで、それぞれ試乗してみると、違和感がますます高まるのが分かった。要は、
視野が不十分なのだ。プリウス、アクアとも、後方だけでなく前方視界にも不安を感じた。フロントパネルが高くなっているため、前方の見える範囲が非常に遠く感じた。パネルに対する目線を変えないようにするという意味があるようだが、やはり視野が遠くなるのは不安だ。後方に関しては、2代目のプリウスの時から見えにくいとは感じていたが、3代目で特に大きくは改善されていない。また、ピレーにより、やはり前方の視界が遮られ、横断歩道を渡っている歩行者を見落としてしまうのではないかという不安も感じられた。コーナーセンサーや、バックモニターにより、これらは解消されるかもしれないし、所詮は慣れの問題という気もする。現に、プリウスで視野が狭いことによる事故が起こったという話を聞かないし、お年寄りが苦もなく乗っている様子からすると問題ないのかもしれない。しかし、その後で今の初代MCプリウスに乗った時の視界の開け方、前方・後方の視野が見やすいところを見ると、やはりこの感覚の方が良いと感じた。

ハイブリッド車が、空気抵抗の観点からこのような形になるのは、なんとなく理解はできるが、そのために視野を狭くしているとしたら目的が違うのではないかと思う。初代のプリウスの時の、ハイブリッドを普通に乗れる車にするというコンセプトに共感していた私にとっては、やはり新しいプリウス、アクアには乗れなかった。もう一度「普通に乗れるハイブリッド車」というものを考えたかった。
さて、それでは私がどの車に乗り換えたか?これについては、また後日明かすことにしよう。

僕がプリウスをやめた理由 その2 へのリンク
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2012年02月23日

シャドウランド

シャドウランド(SHADOWLANDS)というロバート・ノース写真展に行ってきた。(http://www.greenpeace.org/japan/ja/campaign/nuclear/rk/)チェルノブイリを撮影した外国人写真家ロバート・ノース氏が、福島を撮影した写真を展示している。「ロバート・ノース氏が福島をどう感じるのか、その作品を日本人の目で見直すことで、福島の厳しい現実をもう一度感じることができるのではないか」とのことで開催されている。
原宿のデザイン フェスタ ギャラリーの2階のフロアーでの展示で、それほど広くないスペースに20枚ほどの福島の写真が展示されている。素人目ではあるが、特に芸術性が感じられる写真には見えないし、イデオロギー的な主張があるようにも見えない普通の写真である。田舎道を歩きながら、ちょっとシャッターを切ってみたという程度の写真に思えた。人影が全くない写真といっても、夕暮れ時の人通りのない道路や放課後の生徒が帰った後の学校となんら変わらない風景である。草は伸びているが、ジャングルのようになっているわけではなく、普通の道端と大差ない。紅葉した木々も、なんら変化は見られない。
写真にはそれぞれ内容が書かれていて、放射線量は通常の数十倍や数百倍という記述を見てあらためてここが福島なんだと感じる。もう一度写真を見ると、写真の中にどうしても放射能というものの存在を探してしまう。当然のことながら、それは何もない。そうすると、人影がないということに対して、「空虚」というものだけを感じることになる。
ボランティアで行った気仙沼の津波に破壊された風景とこの空虚な風景写真。どちらも被災地でありながら、あまりの「動」と「静」の違いに言葉を失う。この空間に漂うものは、静寂と空しさだけ。「動」であるから、人は動けるのかもしれない。「静」では、このまま時が流れていくだけになってしまうのかもしれない。
風景の写真の他に、そこで活動している人の写真も飾られている。笑顔はなく頑張るしかない、それがメッセージである。「自分たちがやらなければ」という言葉に対して、残念ながら言葉を失ってしまう。
ギャラリーを出て、原宿駅に向かう。竹下通りの賑わいは、1年前に起こったことをすべて忘れているような感じがする。あの時には、ほとんどみんな「何かしなければ」と思っていたはずなのに、ここではそんなことは微塵も感じられない。ここの賑わいとギャラリーの静寂のコントラストというものを意図してこの写真展を企画していたとしたら、驚きである。
空虚からの救済。私たちが背負ったものはあまりにも大きい。
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2011年12月14日

旬じゃない能登紀行 - その5 世界遺産であるということ

夜はずっと雨だったようである。朝方も雨が残っていて、雨だれの音に導かれながらの目覚めであった。出かけるまでには止んでほしいな、と思いながら床を離れると、囲炉裏にはすでに火がおこされていた。早速、火遊びを始めたわけで、良く飽きないもんだと我ながら感心した。天気が気になり、近代的なテレビを点けると、ちょうど天気予報をやっていた。どうやら雨は上がり、今日は暖かくなるようである。なかなか運に恵まれた旅である。
そうこうしていると、おかみさんが朝食を運んできてくれた。ご飯のうまさは、やはり格別であった。朝食を食べながら、今日の段取りを考えた。とりあえず、車を宿におかせてもらって、集落をぐるっと回ることにした。宿の主人にこの集落の見どころを聞くと、どうやら高台から集落を一望するところがきれいらしい。その他は、集落のパンフレットに書かれているところを一通り見るのが良いとのことである。早速、身支度を整えて、支払を済ませ、探索に出かけることにした。
まずは、夫婦ケヤキである。ちょうど雨も上がり、日差しも出てきて良い天気になった。雨で洗われて、木立や山々の風景が一段ときれいに見えた。坂道を10分ほど上がっていくと、そのケヤキはあった。それほど感動するものではない。道伝いには、水路が流れている。菅沼集落もそうであったが、非常に水に恵まれている。集落のいたるところに水路が張り巡らされており、これが集落を支えているということがうかがえた。そのまま下ってきて、集落のメイン・ストリート沿いの家々を見て回る。五箇山には2つの合掌造り(菅沼と相倉)がある。それぞれの合掌造りはその形が違っているとのことであったが、素人目には違いは良く分からなかった。相倉集落の合掌造りは、かなりの数が民宿となっている。特に、メイン・ストリート沿いにある合掌造りはほとんど民宿である。宿泊客の浴衣が干してあったりして、生活感が感じられる。メイン・ストリートから外れて、パンフレットにある「天狗の足あと」を探す。どうやらそれらしい岩を見つけたが、天狗のイメージからは想像できないような小さな足跡らしき窪みがあった。「ま、こんなものか」と思い、歩き始めようとすると、一人のおかみさんが炭をもって現れてきた。「これが、天狗の足あとですよね」と尋ねると、なぜか、違う話を始めた。「この辺りは、昔は水がなくてね。それを、おとうさんが山の方から引いてきて、おかげで米も育つようになったんだ。私は、別の地域からここに嫁いで来たんだけど。。。」。とっても明るいおかみさんで、いろいろと話をしてくれた。ふと、ここに来る前に民宿について調べた時、「勇助」という民宿のおかみさんが話好きで楽しいという記述があった。「もしや、このおかみさんのことかな」と思ってパンフレットも見返すと、確かに天狗の足あとのそばにある民宿が勇助であった。本当に楽しそうに話をされるおかみさんなので、今度訪れる時には勇助に泊まりたいと思った。
そのまま、ぐるっと回っていくと、すでに刈り入れの終わった田んぼとその先に見える合掌造りの家々が、青空に映えてきれいに広がっていく。紅葉にはまだ早いが、この自然と集落の一体感は感動ものである。さらに、集落の入口にある駐車場を超えて、坂道を登っていき、めざすビューポイントに向かった。20分くらい歩くと、広い通りに出た。そこからちょっと下ると、やがて集落が木々の間から覗けるようになった。さらに行くと、まさに集落を一望できる場所に辿り着いた。この景色は、確かにすばらしい。眼下に広がる合掌造りの家々とその周りに広がる田畑と木々、遠くには山々がそびえ、それらが朝日に映えている。谷合に広がるこじんまりした集落は、一見無造作に家が建てられているように見えるが、自然との調和の中に作られていると感じられた。無味乾燥な風景とは違い、しっかりとした生活感のもとに集落が形成されているのがわかるようである。
これで、一通り集落を見物したので、宿に戻り車に乗り込んだ。おかみさんとご主人に見送られて、集落を後にした。とても、温もりのある人々であり、心が温かくなるようであった。
集落の駐車場に車を停めて、お土産を買っていくことにした。栃餅をお土産に買うと、今朝作りたての栃餅があり、それを土産屋さんで食べることにした。栃の実を食べるのは初めてであったが、ナッツよりさっぱりした味わいであった。栃餅を食べている横で、土産屋の主人と思しき人が、なめこをパック詰めしていた。今朝、山から取ってきた天然のなめこを選別して、パックに詰めて販売している。作業を進めている主人と、ひとしきり話をし、世界遺産になったが故の生活の厳しさについて聞くことができた。合掌造りに住むことは、楽なことではない。もっと快適な生活ができるように改造したくても、世界遺産であるために勝手に家や家の周りに手を入れることができなくなった。特に、ここでは車が足代わりであるが、家の周りに勝手に車庫を作ることができない。この辺りは冬は寒く雪も多いので、車庫がないと毎朝雪搔き、除雪、窓の霜取りをしなければならない。これは、かなりの労働になるそうである。本当は、もっと便利で快適な生活をしたいのであるが、世界遺産を守るために不便な生活を強いられている。若い人にとっては、ここでの生活は難しいというのは頷ける話である。知床や平泉のような世界遺産は、観光地そのものが対象であるが、ここでは、日々の生活そのものが世界遺産になっている。そのため、世界遺産を守るためには、不自由な生活を強いられることになる。それでも、守らなければならないという苦労がここにはある。このような世界遺産は、その土地にいる人に任せるのではなく、すべての人が協力して守っていく体制を整えていく必要があると強く感じた。どうすれば良いのかの解は見つからないが。

次回は、旬じゃない能登紀行 - その6 いざ金沢へ (準備中)
ラベル:世界遺産 五箇山
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2011年12月05日

旬じゃない能登紀行 - その4 「五箇山」合掌造りの生活

菅沼集落を、薄日の中で見学できたのは神の恵みであった。集落の中を歩くには、やはり傘をさすのはつらいものがあったはずである。菅沼集落は、観光客向けにすべての道が舗装されていたのであるが、やはり雨はつらい。
菅沼集落を後にして、五箇山の中心地にある岩瀬家や籠の渡しなどを見学し、本日の宿がある相倉合掌集落に向かった。山道のワインディングロードから相倉合掌集落に向かうと、一段下がったとちにひと固まりの集落が見えてくる。本日の宿である民宿「なかや」は、集落の中では一番先の方にある。まずは、集落の入口にある駐車場に近づくと、親父さんが出てくるので、「今夜泊りです」というと、あっさり通してくれた。全体的に穏やかな雰囲気があるのは、田舎特有の土地柄のせいか、合掌造りの中で時がゆっくり流れているせいか、いずれにしても心が和んでくる。3時のチェックインには早かったが、とりあえず宿に行ってみることにした。まだ、雨が降り続いているので、ここの集落の観光は明日にすることにした。
「なかや」に着いて玄関を入ると、おかみさんが出迎えてくれた。「早いですが、良いですか?」というと、「どうぞ、どうぞ」とのことで、荷物を抱えて合掌造りの中に入っていった。中に入ると、特に合掌造りというイメージではなく、単に古民家という風情であった。囲炉裏のある部屋に通されて荷物を下ろす。トイレや洗面所は特に合掌造りというものではなく、現代的なものであった。合掌造りとはいえ、実際に生活をしているわけだから当然である。そもそも、合掌造りは外側からの写真しか見たことがないわけで、家の中がどうなっているかという知識があったわけではない。合掌造りはすべてが特別であると思う方がおかしい。
「夕御飯は6時ですけど、お風呂はどうします?」ということであった。家族的なお風呂があったが、時間もあるので温泉に行くことにした。温泉の割引券をいただいて、車で15分ほどの「ゆ〜楽」というところに行った。ここは、昼過ぎにいった道の駅のさらに先にある。なかなか絶景のお風呂であり、すべてのお風呂から眼下に庄川を見下ろすことができる。雨で霞んでいたのが残念であるが、紅葉したらすごいだろうなぁという期待を持たせるものであった。サウナの窓も大きく、そこからも庄川に広がる景色が見える。露天風呂からは、溢れたお湯がそのまま崖伝いに川まで辿り着くように思われ、自然の中に溶け込んでいるような錯覚を覚えた。
お風呂から集落に戻ると、雨はほとんどやんでいた。すでに暗くなっていた。合掌造りの窓からこぼれる明かりが、なんとも幻想的である。あたりの暗闇とわずかにうかぶ合掌造りとの間の微かな線と、その中に浮かび上がる窓からの明かりが、なんとなくぬくもりを感じさせるように佇んでいる。雪の季節であれば、この明かりが雪に映えてきれいに輝くのであろうが、窓からの明かりだけが広がる景色もなかなか趣深いものである。
宿につくと、夕御飯までは少し時間があった。浴衣に着替えて、囲炉裏端でのんびりする。囲炉裏には、岩魚の塩焼きが刺さっていて、夕食前の囲炉裏に命を吹き込んでいるようである。実は、囲炉裏の火をいじるのが好きである。炭の残りのかけらを火の点いている炭に載せると、パチっと小さな火の粉が飛ぶのがなんとも好きである。部屋には大きな液晶のテレビが置いてあったが、テレビをつけることもなく火をいじって時を過ごしていた。やがて、お膳に載った夕食が運ばれてきた。ビールをお願いし、煮物と岩魚の料理に舌鼓を打った。やがて、御飯を食べ始めたが、この御飯が非常においしい。米が違うのか水が違うのか、この御飯の味は本当に忘れられない味であった。
夕飯が終わると、後は寝るまでやることがない、というわけではなく、そこからまた火と戯れると時間も流れていくものである。ロングドライブの疲労感も手伝って、早めに床につくこととした。おかみさんに、「休ませていただきます」と伝えて、後の火の始末をお願いして寝ることにした。

次回は、旬じゃない能登紀行 - その5 世界遺産であるということ
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2011年11月27日

旬じゃない能登紀行 - その3 小さな世界遺産「五箇山」

五箇山インターに到着したが、まだ目的地までは10km以上ある。最初の合掌造りの地域である菅沼合掌造りの集落を横目で見ながら、まずは「麦屋節定期公演」の開かれている場所に急ぐ。やがて広場に到着すると、11時35分くらいになっていた。ちょっと遅れたが、ほぼ予定通りというところであろう。「どこに車を停めて良いですか?」と聞くと、「どこでも、そのあたりに停めな」とのことで、小さな村ならでは、また、あまり観光客もいないことの成せる技であった。本当にこじんまりした公園で、3人くらいの演武者が3組ほど、それと歌い手と伴奏が3人ほどで演じていた。30分ほどの短い講演で終了し、次なる目標は昼食である。蕎麦と豆腐を求めて10分ほど山道を上り、道の駅たいらに到着。案内で蕎麦のお勧めを聞くと、「生がいいですか?」とのこと。ん?まさか、この地方では蕎麦を生という方言があるのかなぁ~、なんて考えながら「生の他は何があるのですか」と聞くと、「乾麵だよ」とのこと。え〜、なんで乾麵を食べにゃいけないのだと思い「生です」と答えると、「それだったら渓流荘だね」ってことだった。確かに、ここまで上ってくる間にちょっと気になった看板のある店だったので、そこに行くことにした。渓流荘は、外観がひなびたているが、期待を持たせる建物であった。水車もあり、お〜、これで蕎麦を挽いているのかと思い、期待を持たされた。しかし、帰りがけに水車をもう一度見ると、水は掛かっているが回っているわけではなく、単に飾りであった。店の中は、特に2階の座敷からの渓流の眺めが素晴らしく、「行く川の流れは絶えずして…」という感じであった。とにかく、水の多いところのようだ。肝心の蕎麦であるが、ちょっとがっかり。腰があるわけでもなく、あまり蕎麦の味わいが感じられるものではなかった。また、豆腐も、感動するものではなく、普通かなというところである。
とりあえず腹ごしらえも済んで、いよいよ合掌集落の見物に行くこととした。まずは、最初に通り過ぎてきた菅沼合掌造りの集落に向かった。駐車料金の500円を払い、これは、施設維持の協賛金のようであるが、集落に歩いていく。幸い天気も薄日が差してきてくれて良かった。ここは、こじんまりと10数軒の合掌造りの建物があり、順番に見ていく。観光地化されているせいか、道路は舗装されていて歩きやすい。田んぼはすでに稲刈りが終わっており、切り株が残っている状態である。紅葉は、まだ始まっていないし、天気も薄曇りなので、合掌造りの家が景色に映えるというわけではなかったが、なんとなく時間がゆっくりと流れているように感じられ、気分が落ち着いてくるようであった。一通り集落を歩いた後、なんとエレベータで上の道沿いにある駐車場まで上がった。古の集落にエレベータというなんとも不釣り合いなものであるが、景観を損ねているわけではないので良いのだろう。エレベータを上がって、道伝いに歩くと、集落が一望できるビュー・スポットにたどり着く。確かに、ここからは集落全体が一望でき、こじんまりとまとまった様子が、あたかも模型で作ったようであった。そのまま、道伝いにあるいて、元の駐車場に戻る。集落の説明図にある、川の対岸から眺められるビュー・ポイントに行ってみたいと思って、係員に行き方を聞くと、車でないといけない距離とのこと。しかし、そのためには集落の中を車で抜けなければいけない。無理かなぁ~と思って、車で入って良いですかと聞くと、管理費を払っているならいいよ、と快く言われた。観光客が歩いている間を、地元でもない車で抜けていくのは、ちょっと気が引けたが、そのまま走り、菅沼橋を越えて、山道をちょっと行く。これより先通行止め。そこで車を降りて、さらにちょっと歩くと、確かに絶好のビュー・ポイントである。緩やかにカーブを切った庄内川の向こうに、田園とその中にぽつぽつと合掌造りの家々が建っている。その先に広がる山々が緩やかに稜線を広げている。まさに、1つの里というものを形成し、その中で時間がゆっくりと流れているという感じであった。
菅沼集落を後にして、再び五箇山の中心地に向かう。しばらくすると雨が降ってきた。

次回は、旬じゃない能登紀行 - その4 「五箇山」合掌造りの生活
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2011年11月24日

旬じゃない能登紀行 - その2 〜小さな世界遺産 五箇山への道〜

10月2日、日曜日、早朝。旅の支度は前日に済ませておいたので、荷物を車に積み込んでスタートする。午前6時。まずは、予定通り出発となった。午前6時に出発した理由は、今日目指す五箇山の「麦屋節定期公演」に合わせて逆算した結果である。この公演は11時30分に始まるとのことであった。ウエブで確認して、五箇山までの時間を5時間とし、休憩を含めて6時に出発することとした。
今回、五箇山に行くことにしたのは、一度世界遺産の合掌造りというものを見てみたいということであった。理想としては、合掌造りの家々からこぼれる明かりに雪景色が浮かびあがるというのを見られることであるが、さすがに雪の中を車で行くわけにも行かず、寒さにも耐えられないだろうということでこの時期に行くことにした。紅葉は10月後半ということで、景色を期待してはいけないのかもしれないが、なにはともあれ、一度見てみることにした。世界遺産の合掌造りといえば、普通は白川郷ということになる。以前、能登の帰りに東海北陸自動車道を使ったことがあるが、その時、眼下というか、やや遠巻きに見えた白川郷の景色は、夕陽に映えてきれいであった。しかしながら、今回旅の前にいろいろと調べていくと、白川郷から離れて富山県に入ったところに五箇山という合掌造りの集落があることが分かった。こちらも、世界遺産の一角であるが、白川郷ほど観光地化していないだろうと思われた。どうせなら、静かに見学したいということで、五箇山に行くことにした。
いつもの関越自動車道とは違い中央自動車道に調布インターから乗る。日曜日の早朝ということで、環八も甲州街道もすいていて、スムーズに中央自動車道に乗ることができた。朝もすでに明るくはなっていたが、どんよりとした曇り空で、「右に見える競馬場、左はビール工場」という気分でもなかった。天気予報によると、今日は雨になるらしい。なんとか天気が持ってくれることを祈りながら、車を走らせた。松本で高速を降りることになるので、できればその近くまで稼いでから休憩を取りたいと思い、約2時間、ノンストップで運転し、八ヶ岳PAで休憩および朝食を取った。もうちょっと頑張って、諏訪SAまで行けるかなと思ったけれども、この辺りが限界だろう。持ってきたおにぎりとパンと、SAのうどんで英気を養って、いざ、山道に向かおう。
松本インターから、市内を抜け、松本電鉄に沿って進む。その終点である新島々駅を超えて進んでいく。昔、穂高を縦走した時に、新島々駅からタクシーで上高地に向かったことが記憶によみがえる。といっても、30年も前のことである。そこからは、まさに山道。くねくねと進み、ダムに沿って川を越え、トンネルを抜け進んでいくと上高地との分かれ道に辿り着く。ここからは、安房トンネルを抜け、一気に岐阜に入っていく。このトンネルがなければ、とてつもなく長い峠越えになっていたとのことで、750円の通行料も感謝というところである。BOSSのコマーシャルではないが、山があればトンネルを掘りというところであろうか。最短距離でまっすぐに続くトンネルと、つづら折りにゆっくりと続いているであろう峠の道。野麦峠の女工哀史は、トンネルのはるか上の峠に埋もれているのであろうか。
飛騨に入り、道は広いがカーブの多い道を快適に飛ばしていく。なぜか、乗鞍の地名となり、ちょっと違和感を覚えた。後で地図を確認すると、なるほど、ここから乗鞍スカイラインがつながっているし、遠くには乗鞍岳があるのがわかった。乗鞍というと、どうしても長野のイメージがあったが、岐阜側からもあるわけだから当然ではあるが、固定観念というものは恐ろしいものである。所どころ、見晴らしの良いところがあり、飛騨市内であろうか、きれいな田園風景を見ることができた。すでに、ほとんど稲の刈り取りも終わっており、紅葉まではまだ間があるため、季節も農閑期というところであろうか。
やがて、高山市内に入っていく。ここで、高速道路に入れば、東海北陸自動車道を抜けて五箇山まで一気に行けることになる。しかしながら、事前の確認を怠っていた。高山インターに入り損ねて高山西インターから乗ることになった。いかにせん、10年前のカーナビでは、この辺りの新しい道は載っていない。ところが、道を間違えたために高山市内を抜けることになり、思わぬところで高山観光を行うことができた。高山市内は、環境客で非常に賑わっており、完全に観光地となっていた。町並みは、古を感じさせる佇まいで美しいところであった。今度、観光に来てみたいと思った。
さて、再び自動車道に入り、飛騨清見インターのところから東海北陸自動車道に合流した。ここまで来ればと思ったが、ここからがまだまだ40Kmくらいある道のりである。しかも、ほとんどがトンネルの中で、またまた、BOSSを思い出すこととなった。以前の記憶の通り、白川郷を上から眺めてみることができると思い、飛騨白川PAに車を停めたが、なにも見えない。どうやら、名古屋方向からしか見えないようである。気を取り直して車を走らせ、五箇山インターに到着した。

次回は、旬じゃない能登紀行 - その3 小さな世界遺産「五箇山」
posted by 鵤由利 at 21:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旬じゃない能登紀行 - (1)

しばらくブログを書いていなかった、というか、忙しさにかまけてほったらかしにしてしまった。
久しぶりにつらつらと10月に行った旅行を書いてみることにする。途中で頓挫しないようにしたい。

始めに

能登へは、毎年のように行っている。妻の実家があり、ここに行くと、上げ膳据え膳、婿様状態で非常に居心地が良い。おまけに、海の幸、山の幸、美味しい水、温泉三昧などなど、唯一気になるのがメタボに拍車がかかることだけである。
さて、今回は10月初旬という今まで行ったことのない時期を選んでの旅となった。なぜこの時期かというと、ちょっとした理由がある。今まで、春、夏、冬に行ったことがあるが、秋というのは行ったことがない。四季をすべて経験することも必要だ。しかしながら、今回この時期になったのは、震災の影響である。巷の企業が輪番体制を取っているために、メーカは逆に夏休みが取りにくくなってしまった。輪番対応のために、土日も働くエンジニアがいる中で、なかなかまとまって夏休みを取るというのも気が引けた。輪番自体が9月一杯で終わったため、やっと取れた夏休みを使っての能登旅行である。大したことではないし、今までにない経験をできるというのも悪くはない。
通常であれば、関越から長野道、北陸自動車道を通るということで、高速道路から一気に能登半島に入っていくのであるが、今回は、寄り道をしながら行くことにした。多少はのんびり休養を取りながら行くのも悪くはない。道程は、世界遺産の合掌作り見学から、金沢の観光、そして能登ということにした。
前置きはこのくらいにして、旅日記に入っていくこととしよう。

次回は、旬じゃない能登紀行 - その2 〜小さな世界遺産 五箇山への道〜
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2011年09月25日

みちのくボランティア紀行 終わりに - HTML版 (19: 最終回)

終わりに

東日本大震災被災地へのボランティアとして1週間ほど活動した後、久しぶりに実家に帰って母に現地の状況を話した。それを聞いていた母から、今まで聞いたことのなかった戦争の体験談が飛び出してきた。母は、先の戦争で姉と兄を亡くしている。兄は海軍に所属し、駆逐艦さざなみに乗っていて、アメリカ軍の魚雷攻撃を受けて轟沈して死亡した、という話は今まで何度も聞かされていたが、姉の話というのはほとんど聞いたことがなかった。姉は、八王子の空襲で亡くなった。その時、母の父(祖父)は何度も姉が住んでいたと思われる場所に足を運んで、なにか遺品が見つからないかと探しまわったそうである。姉は、金歯を入れていたということで、せめてそれだけでも見つからないかと探しまわったそうである。結局、なにも見つけることができず、失意のまま家に戻ったとのことである。また、兄についても、今までに聞かされていなかったことを話し始めた。
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みちのくボランティア紀行 第17章 そしてボランティアともお別れ - HTML版 (18)

第17章 そしてボランティアともお別れ

翌朝、荷物をまとめ、朝食を食べ終わってからボランティア・センターを後にした。1週間も共同生活を行っていると、それなりに仲間意識も芽生え、車に乗り込むとほとんど全員が見送りに来てくれた。「気を付けて帰ってください」、「今日のボランティアも頑張ってね」、「また一緒にやれる日を楽しみにしています」という挨拶が交互に交わされ、ボランティア・センターを後にした。津波に呑み込まれた集落、壊れた家、仮設住宅などを後にし、気仙沼の街並みを遠くに見ながら運転する。今日中に帰れれば良いから、焦ることもなくゆったりした気持ちで運転した。気仙沼を後にすると、そこからは地震の爪痕すら感じない、普段通りと思われる生活をしている集落を抜ける。途中、道の駅で野菜と米を買った。これも、去年、気仙沼に来た時に買って帰りたかった地元の米で、まさか本当に買うことになるとは想像だにしていなかった。
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みちのくボランティア紀行 第16章 JAP再び - HTML版 (17)

第16章 JAP再び

由利にとっての最後のミーティングが始まった。当然のことながら、由利には明日の活動の割り当てはない。残って活動を続けられるボランティアの人に「頑張ってください」という言葉を残すのみであった。
ミーティング後の恒例の簡単な飲み会で、由利は甘利先生から大きな、しかし、タダの授業を受けることとなった。それは、今回の震災のもう1つのとてつもなく大きな問題の原発についてである。

「甘利先生は、どのような研究をされていたのですか?」と由利が尋ねると、
「地球科学といってね、地球の生い立ちや構造、構成というものを研究するものなんだ。おかげで、世界中色々なところに行ったよ!」
「地球科学って、地震を予知したりするやつですか?」と、由利はなんとか話を合わせようとしたが、「いやいや、それは、地球物理学だよ」と先生に言われてしまい、むなしい努力に終わった。まぁ〜いいか、畑違いだし、と由利は思ったが、甘利先生から別の話を振られてきた。
「君は、これに賛同してくれるかね?」と先生が1枚の紙を出してきた。由利は、一体なんだろうと思って見てみると、「9月18日、原発反対1000万人署名活動」と書かれてあった。由利は、変な話に巻き込まれたくないなぁ〜と思って、「あ、それはインターネットで既に署名しました」と適当に答えることにした。由利も、3・11以来の福島原発の水素爆発以来、原子力や放射能については、いろいろとかじってはいたが、原発が必要か不要かという話に関しては、どうもイデオロギー的な印象を持っていて、まだ判断がついていなかった。
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みちのくボランティア紀行 第15章 ボランティア最終日 - HTML版 (16)

第15章 ボランティア最終日

本日の作業は、牡蠣筏の組み上げである。今日で、由利のボランティアも最終日である。「百里を行く者は九十を半ばとす」という諺通り、再駒でボランティアをやり遂げようと心に誓うとともに、最後まで迷惑を掛けないようにしようと肝に銘じて作業に取り掛かる。男性陣は、筏組、女性陣は牡蠣の種付けを行い、2年後に大きく育つことを記念しての作業が続いた。今日からは、甘利さんという元大学教授が加わった。どう見ても60代後半であるこの老人が、本当にボランティア、しかも筏組みのようなガテン系の作業ができるのだろうか、と由利は思ったが、どうしてどうして。周りをガンガン引っ張って作業を進める姿は堂に入ったものである。「甘利先生、すごいですね!」と由利が言うと、「君達よりは、アウトドアには慣れているよ!」と軽くあしらわれてしまった。聞くところによると、研究のため世界中のあちらこちらに行っては、金づちで岩を砕いていたとのこと。学生と一緒にテントで生活することもたびたびやっていたとのこと。丸太を組んでいく時の釘打ちはお手のものであった。
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2011年09月23日

みちのくボランティア紀行 第14章 どこまでやるのがボランティア - HTML版 (15)

第14章 どこまでやるのがボランティア

4日目の作業は家具の運び出しである。70歳くらいの夫婦で暮らしていた家も、津波で一階部分がほとんど水につかってしまった。幸い、道路の盛り土に遮られて津波が直接来なかったため、家は壊されずに立っていた。そのため、改修すれば再び住むことができるようになるようである。隣には、避難所も兼ねている小学校があり、あの震災の中では落ち着いた雰囲気の集落であった。3か月もたってしまっていたのは、行政が家の工事を禁止していたためである。この地区全体の行政区画を考えていたらしいが、2か月ほどたった時、突然、解除になったとのことである。ここにも、行政に振り回された人々がいた。ご夫婦は、仕方がないので自分たちで片付けを始めていたが、すでに限界で疲れ切っていたようで、ボランティアに要請が来た。
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みちのくボランティア紀行 第13章 牡蠣棚用の丸太運び - HTML版 (14)

第13章 牡蠣棚用の丸太運び

3日目は、牡蠣棚に使う杉の丸太を杉林の中から海岸に運ぶ作業である。足場の悪い山の斜面の作業であり、丸太自体は長く重いので、素人のボランティアがやれる作業なのだろうかと思っていたが、そこは人が集まればそれなりの知識のある人がいるものである。今日のリーダー兼主役は誠治さんである。1本の丸太を6~7人で担ぎ、立ち木の間をうまく抜け、早さをコントロールしながら運ぶには、リーダーシップが命である。場合によっては、木に挟まれたり、丸太の下敷きになったりで大怪我になりかねない。無理せず慎重に進める作業である。最終的には、必要となる30本近い丸太を運び出して、海から船に乗り込ませることができた。今まで以上に緊張する作業ではあった。
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みちのくボランティア紀行 第12章 小さな集落の悲しさ - HTML版 (13)

第12章 小さな集落の悲しさ

2日目は、小浜という小さな漁村の民家の泥だしである。この地域は、海から続く川に沿った谷合の集落で、津波が川を遡るようにしてやってきて、川に沿った集落をすべて飲み込んでいったところである。今日ボランティアする民家は、その中で一番上流にある家で、欄間などを備えた立派な造りの家である。一番上流にあったため、津波の浸水は受けたが、家が破壊されるにはいたっていなかったため、再建できることになった。見渡せば、周りのすべての民家が瓦礫となっており、家として立っていられたのはこの民家と隣の家くらいであった。
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みちのくボランティア紀行 第11章 ボランティア開始 - HTML版 (12)

第11章 ボランティア開始

由利にとって、初めてのボランティア活動である。それは、初日の夜のミーティングから始まった。明日の作業内容の説明と現場のリーダーの選出、注意事項が説明されて解散となる。明日は、民家の瓦礫撤去とのことであった。長旅、ロング・ドライブもあって、まだ夜の8時台であったが眠ることとした。そもそも、雑魚寝の場所には明かりもなく、懐中電灯だけなので、本を読むこともできない。とにかく体を休める、これがボランティアの基本なのかもしれない。
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みちのくボランティア紀行 第10章 いざボランティア - HTML版 (11)

第10章 いざボランティア

6月19日の朝、由利は、そそくさと荷物を車に積み込んで出発した。これから、500キロ超えのロングドライブになる。妻が早起きして作ってくれたおにぎりを、どこのサービスエリアで食べようかと考えるのも、ちょっとした楽しみであった。外環自動車道に大泉インターから入り、川口ジャンクションから東北自動車道に入る。料金所では、「災害派遣等従事車両」ということで、書類を見せるとそのまま通過できた。これも、妻が前もって区役所に相談に行き申請してくれたもので、これには由利も感謝の気持ちで一杯であった。
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2011年09月22日

みちのくボランティア紀行 第9章 ボランティアへの想い - HTML版 (10)

第9章 ボランティアへの想い

1週間も経つと、会社や生活の状態は落ち着いてきた。別に、東京にいる由利たちは被災者ではないのだから、時が過ぎれば落ち着くのは当然である。テレビ等では、あいかわらず震災の爪痕や原発の問題が放送されている。由利も、今回の震災にどう向き合うのかを真剣に考えるようになってきた。確かに義援金や支援物資の提供を行っているが、なんかモヤモヤした気持ちである。これは、阪神淡路大震災の時には味わったことのない感覚である。あの時も、義援金を送ることで、自分なりに区切りをつけていたが、今回は何かが違う。被災地が、阪神淡路の時に比べると近いからなのだろうか、被害の規模がとてつもなくでかいからであろうか。

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みちのくボランティア紀行 第8章 そして月曜日 - HTML版 (9)

第8章 そして月曜日
「計画停電のため、電車がストップしている路線があります」。昨日からの情報である程度は予想していたが、駅に着いて由利はびっくりした。ホームが人で溢れかえっている。これでは、いつになれば電車に乗れるかわからない。なんとか、3台見送ってから4台目に強引に乗ることができた。こんなことが毎日続くようであれば、とてもじゃないけどもたない、と由利は思った。会社につくと、予想通りかなりの人がまだ到着できていない状況であった。とにかくお客様からの問い合わせに対応できるだけの体制を整える。不十分であるが、この事態であればしょうがない。それから、コンピュータ室の修復に着手し、いくつか壊れた機器はあったが、大部分は動作することがわかってほっとした。

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2011年09月21日

みちのくボランティア紀行 第7章 3.11 - HTML版 (8)

第7章 3.11
2011年3月11日、この日は日本の将来にとって大きな意味を持つ日になっていくであろう。この日は、金曜日であった。由利は、いつも通りに仕事を進めていた。金曜日、しかも午後になると、なんとなく週末モードになり、今日の仕事の納め所を考えていた。3月もこのころになるとだいぶ春めいてきていて、もう少ししたら厚いコートもいらなくなる時期である。午後の柔らかな日差しが窓から入ってきている。今夜は雨になるかもしれないが雪になることはない、という天気予報であった。外はまだ寒さが残っているようだが、暖房の効いた室内は、春眠というわけではないが、なんとなく眠気を誘うような陽気であった。

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みちのくボランティア紀行 第6章 松島遊覧、塩釜、そして旅の終わり - HTML版 (7)

第6章 松島遊覧、塩釜、そして旅の終わり
円通院を出て、フェリー乗り場に行き、塩釜行きのフェリーに乗る。松島の島々の間をぬってフェリーは進み、都度、島に付けられている名前の説明がある。牡蠣棚や漁をしている船を遠くに眺めながら、やがて、水産工場のようなものが見えてくると塩釜到着である。マリンゲート塩釜というところに到着し、外に出てみるときれいに整備されているのがわかる。いわゆる漁村とはかなり雰囲気が違い、再開発された港というイメージであった。まずは、腹ごしらえということで、鮨屋さんを探して本塩釜駅前に行く。昔ながらの露天市場のように店が集まっているところで、見学をしながら、さかな屋さんのおかみさんに「ことぶき寿司に行きたいのだけれども、どこにありますか」と聞いた。あらかじめ人気店の「ことぶき寿司」を調べたあったので、その場所を聞こうとしたら、「ありゃ、高いだけで上手くないよ。ついてきな、良い店教えてあげるから」ということで、店をそっちのけで案内を始めてくれた。
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みちのくボランティア紀行 第5章 そして仙台、松島 - HTML版 (6)

第5章 そして仙台、松島
平泉、特に高舘義経堂からの景色に感動を受けながら、次なる目的地の仙台を目指していく。一関駅でレンタカーを返し、新幹線で仙台に向かい、ホテルにチェックインした。仙台では、特に観光はせずに、舌鼓を打つことだけにした。明日朝は、電車で松島に向かうことになっている。

仙台といえば牛タン。せっかくだから、和牛の牛タンを食べようということで、ホテルでお勧めの店を紹介してもらうことにした。聞くところによると、仙台の分厚い牛タンというのはほとんどが輸入物で、和牛の牛タンはあまりないようである。そのような状況の中で、紹介してもらった数少ない和牛の牛タンの食べれる店に行き、牛タンとテールスープを注文し、ビールをしこたま飲んだ。牛タンは、割と柔らかくておいしかったし、テールスープはなかなかの味であった。たらふく食って飲んで、ふらふらと歩いてホテルに帰った。
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みちのくボランティア紀行 第4章 いざ平泉 - HTML版 (5)

第4章 いざ平泉
次の日は、ホテルを出てぐるっと気仙沼市内を回った。気仙沼の市内は、古い町並みが続いていて、歴史を感じさせるところである。ここには、男山本店という有名な酒蔵もあり、古民家もあって非常に風情のある町並みであった。一回りしてから気仙沼を離れ、機能来た道を逆に一関を目指してドライブしていく。途中、道の駅があったのでちょっと休憩がてら見学する。岩手の野菜や卵などが並んでいて、地元の人が結構集まっていた。地元さんの米も売られていて、買って帰りたいもんだと思ったが、レンタカーでは持ち歩くこともできず諦めることにした。

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2011年09月20日

みちのくボランティア紀行 第3章 初めての気仙沼 - HTML版 (4)

第3章 初めての気仙沼
大寿司に着いたのは11時半ころであった。妻は今回の旅の一番の目的をフカヒレ三昧と決めていたので、迷わずフカヒレパイスープから取り掛かった。由利は、フカヒレ寿司を含む寿司の盛り合わせを注文した。フカヒレがどのように寿司になってくるのかと思ったが、しっかりとした味と柔らかい身が合わさって美味であった。妻は、横でフカヒレパイスープを満足そうに食べていた。まるで、明日はプリプリの肌になるのを想像しているような顔であった。
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みちのくボランティア紀行 第2章 みちのくの旅 - HTML版 (3)

第2章 みちのくの旅
2010年11月1日、朝の東京はひんやりした空気に満たされていた。お昼に気仙沼でフカヒレ丼を食べるということから逆算して取ったチケットを持って、朝6時過ぎに家を出た。ちょっと大きめのリュックを背負って、早めの通勤客とともに中央線に乗り、東京駅に着く。いつもながら、時間に余裕を持って行動する由利と、時間ぎりぎりに行動する妻との微妙な不協和音の中で、東京駅で朝食を買った。駅弁が食べたいと思っていたが、いざ売店で買おうとすると、やはりおにぎりとサンドイッチに手が行ってしまうのは、心変わりの早い由利の特徴である。7時過ぎの東北新幹線で、一路、一関を目指す。そこから、レンタカーで気仙沼まで一気に行く予定である。

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みちのくボランティア紀行 第1章 大地震、そして、みちのくへの思い - HTML版 (2)

第1章 大地震、そして、みちのくへの思い


午後8時半を回っていた。家の玄関の明かりが見え、外見からは被害がなさそうなことが分かると、ほっとした気持ちになった。何十回電話をかけた後、妻の安否と家の無事は確認してはあったが、やはりこの目で確かめるまでは一抹の不安があった。帰宅路は、何度かタクシーで通ったことのある道であったので、迷うことはなかったが、さすがに2時間超、しかも皮靴での歩きというのはきつかった。それでも、たかが2時間、まだまだ帰宅時をとぼとぼ歩いている人がいると思うと、この杉並の館が天国のように思えてくる。いつかこのような日が来るとは思っていたが、実際に帰宅難民となってみると、なんとなく自分も被災者の気分になるが、たかが2時間だけの期限付き被災者である。

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posted by 鵤由利 at 19:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

みちのくボランティア紀行 - HTML版 (1)

PDFで公開していた「みちのくボランティア紀行」ですが、30ページあるので章ごとにHTML化してアップした方が良いという意見がありました。
そこで、ここから18回ほど、章ごとに載せていきます。

目次

第1章 大地震、そして、みちのくへの思い
第2章 みちのくの旅
第3章 初めての気仙沼
第4章 いざ平泉
第5章 そして仙台、松島
第6章 松島遊覧、塩釜、そして旅の終わり
第7章 3.11
第8章 そして月曜日
第9章 ボランティアへの想い
第10章 いざボランティア
第11章 ボランティア開始
第12章 小さな集落の悲しさ
第13章 牡蠣棚用の丸太運び
第14章 どこまでやるのがボランティア
第15章 ボランティア最終日
第16章 JAP再び
第17章 そしてボランティアともお別れ
終わりに


ではまずは、「始めに」から。。。

始めに

未曾有の大震災。私たちは、これに対してどう向き合っていけば良いのか。福島第一原子力発電所の災害に端を発した原子力発電の問題に対して、私たちはどう向き合っていけば良いのか。3月11日の東日本大震災は、私たちに対して、歴史上の大きな転機をもたらそうとしているようである。思えば、戦後数十年、日本人は平穏な時代を過ごしてきてしまった。これは、政治体制や経済においては、世界のバランスの中でうまく渡り合える環境であった。また、自然災害においても、台風や豪雨などの災害はあったが、今回の東日本大震災のような超巨大な災害に見舞われることはなかった。ここにきて、日本は、政治的にも経済的にも大きな問題に直面している。さらに、自然災害においても、大きな問題に直面しつつあるようである。叫ばれる東海、東南海、南海の巨大地震、いくつかの火山の活動の活発化など、日本を取り巻く自然環境がいわゆる活動期に入ってきたと思われる状況となっている。
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posted by 鵤由利 at 19:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

月に合う

昨日(9月12日)は十五夜であった。昔から、「十五夜に晴れなし。十三夜に曇りなし」と言われているように、この時期はそんなに天気の良い時期ではないはずであるが、昨夜は満月がくっきりと見える完璧な夜空であった。「中秋の名月」と言われるが、まさか真夏日に十五夜を見ることになるというのは、なんとも不思議な感じである。それでも、美しく輝く満月は感動を与えるものである。
朝方、ススキを7本切って十五夜に備えておいたが、ススキ越しに見える満月はなんとも風流である。平日でなければ、団子でも飾って、兎に向かって盃を掲げることができたであろうと思うと、ちょっと残念であった。
月の色はいろいろと変わるようで、黄色に大きく輝いたり、赤く日照りが続くことを感じさせる色であったり、青白くキーンと張りつめた冬の空に輝いたり。赤銅色になるのは月食の時か。昨日の月は、白く輝いていた。平凡といえば平凡であるが、兎の姿がくっきり見えた。季節に合わせて自由に自分を表現できるということがうらやましく思える。
「月に出て 投網の音や 下り鮎」。親父の句であるが、一見なかなか名句に思える。しかし、厳密には季語が2個入ってしまった季重ねとなり、あまり好かれないようである。有名人が作れば季重ねも名句になるのであろうが、素人の世界では選に洩れる。月は、誰にでも平等に照らすし、自分が主題にならなくても文句は言わないだろう。そのくらい穏やかで優しく振舞えたらなぁ。
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2011年09月05日

+ と −

「オフィスに緑を」ということで、観葉植物を机の上に置くことにした。善は急げということで、早速花屋さんに行き「サンセベリア」という植物を買った。なんでこれにしたかというと、「空気清浄・ストレス解消、マイナスイオン発生中」という文句に惹かれたからだ。周りには電磁波を出す機械がたくさんあるし、それにもまして喧々諤々の熱い議論の飛び交うオフィスでは、プラスイオンだらけ。少しでもマイナスイオンで相殺できれば爽やかなオフィスになるかな。ついでに、USBのマイナスイオン Generatorも買ってPCに取り付け、これで机の周りはマイナスイオンに満たされるだろう。
さて、世の中のものにはプラスとマイナスというように、対になるものがほとんどである。磁石のNS,明と暗、右と左、上と下、男と女、器用と不器用。それぞれ、対になることでバランスが保たれているということなのであろう。対にならないものは、重力くらいだろうか。これも、反重力というものが見つかっていないだけで、将来は対になるものなのかもしれない。反重力エンジンでス〜イスイ、なんていうのもカッコ良い。
人間の世界も、保守と革新、玄人と素人、右翼に左翼、といろいろあるが、ここはどうも渾沌としていて、はっきり分からない。特に政治の世界では、ねじれ現象と言って対立軸を明確にしている一方で大連合ということもささやかれる。そもそも、ねじれ現象とやらで政治を停滞させるのは、愚の骨頂としか思えない。それでは、ねじれ現象を解消させて政治を前に進められる特効薬を紹介しよう。それは、党議拘束を完全に外して、議員一人一人が自分の意志で行動できるようにすることだ。
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2011年08月29日

生きている証

やけに今年は蟻が家の中にいることがある。そうこうしているうちに、壁と天井の隙間から蟻が出入りしているのを見つけた。「すわ大変!」ということで、業者に調べてもらった。
家中をぐるっと調べてもらい、さらに、外回りを調べてもらったところ、侵入の形跡は見当たらないとのことであった。まだ、それほど被害はないであろうとのことで、外回りの土台のまわりに蟻を寄せ付けない薬を散布してもらい、後は、蟻が出没していた近辺に、蟻を巣ごと退治する薬を置くこととした。これで、当面様子を見てください、という業者の言葉を信じて、しばらくは昆虫屋敷とはならずに済みそうである。
それにしても、業者さんはプロである。デッキの下の狭い隙間に潜って、土台をくまなく調べてくれた。「20センチあれば入れます」とは言っていたものの、私には絶対にできないだろう。メタボ寸前の状態が解消したとしてもできないだろう。ということで、あらためてプロの凄さを感じた。
ところで、ふと思うのであるが、蟻が地球上に存在する意味はなんだろう。同じことがゴキブリにもいえそうである。勝手に家に入り込んで、勝手に食べ物を食べて、その上嫌われるイデタチである。蟻もゴキブリも、食物連鎖の中ではあまり存在感のあるものではなく、存在しなくても誰も困らないのではないだろうか。その他の虫や生き物でいえば、蜘蛛は益虫だ。蛙は虫を食べて、蛇に食べられるので益があるし食物連鎖でも存在感を持っている。
そうこう考えてくると、果たして人間が存在する価値はなんであろうか。少なくとも、自然界にとっては厄介者であるに違いない。タコや鮫や熊が人間を食べるという話もあるが、食物連鎖には程遠い話である。では、人間が生きている証はなんであろうか。その解は未来にある。地球は、あと50億年もすればなくなってしまう。その時、ノアの方舟を出して、ほかの惑星に地球上の生物を脱出させることができるのは人間の知恵だけである。ということを信じて、人間であることを誇りにしたい。それ以前に人間が滅びてしまわないように。
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2011年08月25日

文字コードの生い立ち 〜 グローバル化における先人の知恵 〜

久しぶりに、本職のIT系のブログを上げます。
PCの文字コードがどうなっているか、というのは、今はあまり問題ではないのかもしれない。自然に日本語が表示されているし、検索とかを行うこともできるのが当たり前になっている。
それでも、エンジニアの会話では、「日本語はダブルバイトだから。。。」というような会話が行われている。
ここでは、文字コードの詳細というよりは生い立ちというものに焦点をあててみたいと思う。
以下をクリックしてPDFファイルをダウンロードしてください。

kanji_code.pdf
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社会を動かす力

「原子力安全神話」は、一体どのように形成されてしまったのであろうか。広島、長崎、第5福竜丸、スリーマイル、チェルノブイリ、という歴史があり、普通に考えれば二度と原子力は使えないと考えるのが当然であるが、また使って問題を引き起こしてしまった。原子力発電や放射能、はたまた、使用済み核廃棄物の処理の問題などについて、全く無知であった。どこで洗脳されてしまったのであろうか。単に勉強不足だとしたら、あまりに多くの人々を勉強できない環境にしてしまったのはなぜであろうか。
大国の論理に引きづられているだけという人もいる。明治維新も、単にイギリスとフランスの覇権争いに過ぎないものであるとのこと。しかしながら、幕末の志士により日本人が自助努力により切り開いたというように思っている人がほとんどである。
沖縄の返還も、普通にアメリカが日本に返してくれたものと思っている。しかし、アメリカとソビエトの覇権争いの中で、中国をアメリカ側に引き付けるため、返還という名のもとに進めたという人もいる。同時に行われた、中国に向けられていたミサイルが撤去されたというような事実は、ほとんど知らない。
植草一秀氏は、政・官・財に加えて、米および電の力が裏で蠢いていると言っている。つまり、大国アメリカとマスコミである。田中角栄や小沢一郎の問題は、これによってでっちあげられたとはいわないが、かなりの部分が仕組まれたとのことである。ホリエモン事件もしかり、とのことである。果たして真実はなんなのか。
国民一人一人が、目を見開き、自分で考えるようになれば、このような状況は打破できるはずである。理想であるが、実現はかなり難しい。
それでも、ちょっとでも意識を持って進めないといけない。少しでも脳の皺が増え、真実が見分けられるように。
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2011年08月22日

責任を避ける文化?

先日、NewYork Times の記事で、以下を見つけました。
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?scp=1&sq=09japam.html&st=cse

外から見ると自分のことがよく分かる、と言われるし、ある程度は予想していた内容ではあるが、このような形で指摘されるとがっかりする。
それは、「責任を避けることが文化-culture」と言われてしまっていることである。

内容は、福島原発の問題で、SPEEDIのデータが全く公表されなかったことである。原発が水素爆発を起こした時、放射能の拡散状況がまったく公表されなかったことで、子供が外で遊び、山からの水で米を炊いていた。ある住民は、「情報が隠ぺいされてしまっていたことは、殺人だ!」と言っている。また、最近の政府の発表では、45%の原発周辺の子供たちが甲状腺被ばくを受けてしまったとのことである。
日本政府がSPEEDIの情報を公開しなかった理由について、「公開してしまうことで、避難するのに非常に大きなコストがかかってしまう。また、政治的に大きなパワーを持っている原子力産業への公開質問を避けたかった」と言っている人がいる。また、「公開しなかったのは、総理の決定で、総理自身の安全のためだった」と言っている人もいる。また、文部科学省は、「津波の影響で機器が壊れており、どのれだけの放射能が放出されたかの正確な情報がない。そのため、避難の指示を出す責任を取ることができない」と言ったようである。その他、詳しい内容はNewYork Timesの記事を見てほしい。

世界から、「責任を避けることが文化」と言われてしまった日本人。私たちは、これからどうやってこれを払拭していけば良いのだろうか。
かつて、三島由紀夫は、檄の中で次のように言っている。「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、元を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を汚してゆくのを歯嚙みをしながら見てゐなければならなかった」。私たちは、日本の歴史と伝統を汚しているだけでなく、自然や人間性まで壊してしまっている。
一歩一歩、小さなことから責任を持って行動していく。この積み重ねをするしかないのだろう。次の日本のためにも。
posted by 鵤由利 at 13:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月18日

岩にしみ入らない今年の蝉の声

今年は、蝉が鳴かないなぁ〜、と思っていたら、8月10日過ぎからは夏本番の鳴きになった。
いつもであれば、7月にはガンガン鳴いて、土用の頃は寝苦しい朝方から「ジージー、ミンミン」と、うるさくてしょうがないはずなのに、今年はさっぱり鳴かなかった。家の周りだけではないようで、いろいろな人から今年は蝉が鳴かないという話を聞いた。
噂では、地震の影響だ、という人もいて、なにやら本当のような嘘のような。7月末に神戸に出張した時には、クマゼミがそれはけたたましく「シャーシャー」と鳴いていたので、噂も本当なのかもしれないという気になった。
そういえば、3.11の震災以来、季節感がずれているというか無くなっている。春をほとんど感じないまま、ゴールデンウイークも過ぎ、そのまま夏に突入してしまった。人間がそのように感じているのであるから、蝉が同じように季節感を失ったとしてもうなずける話ではある。
なにはともあれ、ここのところの猛暑と蝉の鳴き声の復活で、心身ともに夏を感じられるようになったので、これからの秋、冬に向かって季節感が取り戻せるのではないかと思っている。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」、といかないのが都会の喧騒であるが、しばし蝉の声に耳を傾けていると、かすかに虫の声も聞こえてくる。間違いなく、時は経っていく。それにしても、昨夜は夜遅くまで蝉が騒いでいた。あげくのはてに、「カナカナ」まで鳴きだして、これはいったいどうしたことか。まだまだ主役の座は明け渡さないぞ、という主張であろうか。
ラベル:蝉 地震
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2011年08月16日

みちのくボランティア紀行

こんにちは。

被災地でボランティアの活動をしてきました。その時の記憶を記録として残しておくべく、ブログにアップします。なお、登場人物、団体等は仮想のものです。
未曾有の大震災。私たちは、これに対してどう向き合っていけば良いのか。福島第一原子力発電所の災害に端を発した原子力発電の問題に対して、私たちはどう向き合っていけば良いのか。3月11日の東日本大震災は、私たちに対して、歴史上の大きな転機をもたらそうとしているようである。
このような時代に突入してしまった以上、私たちはどのように対処していくかを真剣に考えなければいけないと思われる。3.11を、1つの大災害と捉えるのではなく、私たちの今後の進路を決めるための試金石と考えるべきではないだろうか。

以下に全文をPDFにしてアップしてありますので、ダウンロードして見てください。
michinoku_bora.pdf
posted by 鵤由利 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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